あれから三日が過ぎた。
俺は相変わらず出版社での日常を過ごしていたが、心の片隅では橘蓮という男のことが気になっていた。あの公園での出来事—蓮の真剣な眼差し、「君の笑顔に救われた」という言葉、そして俺を見つめる時の照れた表情—それらが頭の中でぐるぐると回り続けている。
土曜日の夕方、蓮と食事をする約束をしている。連絡先も交換した。
なぜあんな約束をしてしまったのだろう。そして、なぜ俺はあの時、あんなにも自然に「お願いします」といってしまったのだろう。
仕事に集中しようとデスクに向かっているが、原稿を読んでいても文字が頭に入ってこない。コーヒーの味も分からない。窓の外を見れば、あの公園の方角ばかりに目が向いてしまう。
蓮の真剣な眼差し、俺の笑顔に救われたという言葉、そしてあの照れた表情。
「藤崎さん、大丈夫ですか?」
後輩の佐伯俊が心配そうに声をかけてきた。彼は俺より五歳年下で、いつも明るい笑顔で職場の雰囲気を和ませてくれる貴重な存在だ。
「ああ、すまない。ちょっと考え事をしていて」
「最近、なんだか元気がないように見えます。離婚のこと、まだ気にされているんですか?」
佐伯の率直な言葉に、俺は苦笑いを浮かべる。離婚のことか。確かにそれもあるが、今は別のことで頭がいっぱいだった。
「いや、もうそれは吹っ切れたよ。ただ……」
そこまでいいかけて、俺は口を閉じる。あの男のことを話すわけにはいかない。話したとしても、佐伯には理解できないだろう。俺自身、何が起きているのか分からないのだから。
「とにかく、心配してくれてありがとう。大丈夫だから」
佐伯は納得していない様子だったが、それ以上は追及せずに自分の席に戻っていった。
その日の夕方、俺は編集会議で遅くなり、いつもより二時間遅れで会社を出た。秋の夜は訪れが早く、もうあたりは真っ暗だった。駅へ向かう途中、なんとなく足取りが重くなる。
家に帰っても一人きり。温め直すだけの夕食と、静まり返った部屋が待っているだけだ。
そんなことを考えながら歩いていると、突然、視界がぐらりと傾いた。血の気が引いていくのが分かる。ここ数日、まともに食事を摂っていなかったツケが、今になって回ってきたようだ。
「うっ……」
立ち止まって頭を押さえる。この数日、あまり食事をとれていなかった。考え事ばかりしていて、自分の体調に気を配る余裕がなかったのかもしれない。
無理をして歩き続けようとしたが、足元がふらつく。近くにあったベンチに腰掛けて、深く息を吸った。
冷たい夜風が頬を撫でていく。もう十一月も中旬だ。もうすぐ冬がやってくる。
「藤崎さん?」
暗闇の中から聞こえてきた声に、俺は息を呑んだ。まさか、こんな時に。
そこには橘蓮が立っていた。制服姿で、どこかの現場から帰る途中なのだろう。驚きと心配が入り混じった表情を浮かべている。
「大丈夫ですか?顔色が悪いように見えますが」
「あ、橘さん……大丈夫です。ちょっと疲れているだけで」
俺は立ち上がろうとしたが、またふらついてしまう。蓮がすぐに駆け寄り、俺の腕を支えてくれた。
「無理をしないでください。熱があるんじゃないですか?」
彼の手がそっと俺の額に触れる。その瞬間、電流のような感覚が走った。心臓が一拍飛んで、次の瞬間激しく脈打ち始める。なぜだろう――美奈に触れられても、こんなふうに胸が高鳴ることはなかったのに。
彼の手は思いのほか温かくて、大きかった。
「少し熱っぽいですね。家はどちらですか? 送らせてください」
「いえ、そんな……迷惑をかけるわけには」
「迷惑だなんて、とんでもないです。放っておけませんよ」
蓮の声は普段のクールな調子だったが、どこか強い意志を感じさせた。俺は反論する気力もなく、結局彼に住所を教えることになった。
タクシーを拾って、俺のマンションまで送ってもらう。車内で蓮は無言だったが、時々俺の方を心配そうに見ていた。その視線を感じるたびに、なぜか胸がざわめく。
マンションに着くと、蓮はごく自然に俺と一緒に部屋まで上がってきた。
「すみません、散らかっていて」
「気にしないでください」
玄関で靴を脱ぎながら、俺は改めて蓮の存在感に圧倒される。普段一人で過ごしているこの部屋に、人が入ってくるのは離婚して以来初めてだった。
「とりあえずベッドで休んでください。薬はありますか?」
「薬箱は台所の戸棚に……でも、そこまでしてもらう必要は」
「義理ですから」と蓮は短く言った。
また「義理」という言葉が出た。
蓮は慣れた様子で薬箱を探し、水を汲んできてくれる。そして風邪薬を俺に差し出した。
「飲んでください」
素直に薬を飲む俺を見て、蓮は少し安心したような表情を浮かべた。
「何か食べられそうなものはありますか?」
「冷蔵庫に卵があったと思います。でも、料理なんて……」
「卵雑炊くらいなら作れます」
蓮は台所に向かい、手際よく雑炊を作り始めた。俺はベッドに横になりながら、台所から聞こえてくる音に耳を澄ませた。
包丁でネギを刻む音。鍋で出汁を作る音。卵をかき混ぜる音。
こんな音を聞くのは、いつ以来だろう。美奈と一緒に住んでいた頃も、お互いに忙しく、料理をする時間はほとんどなかった。そのため、コンビニ弁当や外食ばかりの日々が続いていた。
あれから三日が過ぎた。 俺は相変わらず出版社での日常を過ごしていたが、心の片隅では橘蓮という男のことが気になっていた。あの公園での出来事—蓮の真剣な眼差し、「君の笑顔に救われた」という言葉、そして俺を見つめる時の照れた表情—それらが頭の中でぐるぐると回り続けている。 土曜日の夕方、蓮と食事をする約束をしている。連絡先も交換した。 なぜあんな約束をしてしまったのだろう。そして、なぜ俺はあの時、あんなにも自然に「お願いします」といってしまったのだろう。 仕事に集中しようとデスクに向かっているが、原稿を読んでいても文字が頭に入ってこない。コーヒーの味も分からない。窓の外を見れば、あの公園の方角ばかりに目が向いてしまう。 蓮の真剣な眼差し、俺の笑顔に救われたという言葉、そしてあの照れた表情。「藤崎さん、大丈夫ですか?」 後輩の佐伯俊が心配そうに声をかけてきた。彼は俺より五歳年下で、いつも明るい笑顔で職場の雰囲気を和ませてくれる貴重な存在だ。「ああ、すまない。ちょっと考え事をしていて」「最近、なんだか元気がないように見えます。離婚のこと、まだ気にされているんですか?」 佐伯の率直な言葉に、俺は苦笑いを浮かべる。離婚のことか。確かにそれもあるが、今は別のことで頭がいっぱいだった。「いや、もうそれは吹っ切れたよ。ただ……」 そこまでいいかけて、俺は口を閉じる。あの男のことを話すわけにはいかない。話したとしても、佐伯には理解できないだろう。俺自身、何が起きているのか分からないのだから。「とにかく、心配してくれてありがとう。大丈夫だから」 佐伯は納得していない様子だったが、それ以上は追及せずに自分の席に戻っていった。 その日の夕方、俺は編集会議で遅くなり、いつもより二時間遅れで会社を出た。秋の夜は訪れが早く、もうあたりは真っ暗だった。駅へ向かう途中、なんとなく足取りが重くなる。 家に帰っても一人きり。温め直すだけの夕食と、静まり返った部屋が待っているだけだ。
「それで、美奈さんから藤崎さんが離婚されたと聞いて……」「美奈から聞いた?」 意外だった。離婚後、美奈とは事務的な連絡しか取っていない。「はい。先週、偶然駅前でお会いして。美奈さん、藤崎さんのことをとても心配されていました」「心配?」 美奈が俺のことを心配している。それは本当に意外だった。離婚の時は、もうお互いに何の感情も残っていないと思っていたから。お互いに疲れ切って、ただ別れることしか考えていなかった気がする。「『悠真は一人でいると考え込んでしまうタイプだから』って。『きっと自分を責めて、また笑わなくなってしまう』っていわれて」 美奈は俺のことを、そんなふうに見ていたのか。結婚していた頃は分からなかった視点だった。確かに俺は一人になると、どうしても物事を悪い方向に考えてしまう癖がある。「美奈さんは『悠真にはもっと笑っていてほしい』ともいわれていました。『結婚生活の終わり頃には、彼の本当の笑顔が見られなくなって、それが一番辛かった』と」 その言葉が胸に刺さった。美奈も辛かったのだ。俺は自分の辛さばかりに囚われて、美奈の気持ちを理解しようとしていなかった。「それで、おせっかいだとは思ったのですが、どうしてもお会いしたくて」 蓮は俺の方を向いた。その瞳には昨日と同じ真剣さと、新たに加わった温かさがあった。「藤崎さんが今辛い時期にいるなら、今度は俺が……何かお手伝いできることがあるかもしれないと思って」「お手伝い?」「はい。一人でいるのが辛い時に、話し相手になったり。買い物に付き合ったり。映画を見にいったり」 蓮の頬がほんのり赤くなる。その照れた様子が、クールだった第一印象とのギャップを際立たせている。「そんな些細なことですが……。もしかしたら、少しでも藤崎さんの助けになれるかもしれない。あの時の笑顔を取り戻すお手伝いができるかもしれない」 その不器用な申し出に、俺の心が温かくなった。見返りを求めている様子はまった
翌日の午後三時。「なぜ俺は、あの公園に向かっているんだ?」 俺は自分の足を見下ろした。会社の帰り道、気がつくと川沿いの公園へ向かう遊歩道を歩いている。理性では「意味がない」と分かっているのに、どうしても足が公園へ向かってしまう。 昨日から、蓮のことが頭から離れない。デスクで資料を読んでいても、あの真剣な眼差しが脳裏に浮かぶ。コーヒーを飲んでいる時も、頬を赤らめて照れる表情が思い出される。そして何より--。「君を見つけられて幸せだ」 その言葉が、胸の奥でくすぶり続けている。まるで心臓の奥に小さな火種が灯ったように、じわじわと熱が広がっていく。 会社では同僚の佐伯が「藤崎さん、なんか顔色よくなったんじゃないですか?」と声をかけてきた。そんなに分かりやすく顔に出ているのだろうか。鏡を見ても自分ではよく分からないが、確かに昨日の夜はぐっすり眠れた。離婚してから久しぶりのことだった。 秋の風が頬を撫でていく。川面には数羽のカモが浮かび、のどかな午後の風景が広がっている。こんな平和な場所で、俺は何を期待しているのだろう。 本当に来るのだろうか。それとも、昨日のことは一時の気の迷いだったのだろうか。 ベンチに座って川面を眺めていると、規則正しい足音が近づいてくる。昨日と同じ時刻、同じリズム。その足音を聞いた瞬間、胸がふっと高鳴った。振り返ると、黒いコートに身を包んだ蓮の姿が目に入った。 今日の蓮は昨日よりも身なりが整っている。髪も整えられていて、コートの下には白いシャツが見える。まるでデートの準備をしてきたかのように見える。でも、もしかしたら単なる気遣いなのかもしれない。「来てくれたんですね」 蓮の声に、明らかな安堵が混じっている。昨日よりも緊張しているのか、コートのボタンを無意識にいじりながら近づいてくる。その仕草がなぜか可愛らしく見えて、思わず心の中で苦笑してしまった。男性を可愛らしいと感じるなんて、自分でも驚きだった。「はい。なんとなく、ですが」 俺は正直に答える。なぜここに来たのか、自分でもよく分からなかった。ただ、一人でいることに疲れていたの
その後ろ姿を見送りながら、俺は不思議な気持ちでいっぱいだった。 三年前の笑顔に救われた? 俺の笑顔を守りたい? そんなことをいう人がいるなんて。しかも、俺のことを探し続けていたなんて。 ベンチに一人残されて、俺は改めて川面を見つめた。さっきまでの静寂が戻ってきたはずなのに、なぜか心の中は静かではなかった。 蓮という人の真剣な眼差しが頭から離れない。あんな風に見つめられたのは、いつ以来だろう。 美奈が俺を見る時の目は、いつからか義務的になっていた。愛情というより、習慣で見ているような。でも、蓮の瞳には……いったい何があったんだろう。「君の笑顔を守りたい」 その言葉が胸の奥で響いている。 守りたいって、何からだろう? 俺は今、何かに脅かされているのだろうか。 確かに、離婚してから心は荒んでいる。笑うことも少なくなった。でも、それは自然なことだと思っていた。失ったものが大きければ、大きいほど、悲しむのは当然だ。 でも、蓮はそれを見抜いていたのだろうか。俺が笑えなくなっていることを。 スマートフォンを取り出して時刻を確認する。午後四時を回っていた。蓮と話していた時間は、思っていたよりも長かったようだ。 明日からまた仕事だ。いつものように会社に行って、いつものように編集作業をして、いつものように一人で帰る。 でも、明日の午後三時になったら、またここに来たくなる気がする。 なぜだろう。 俺は立ち上がって、蓮が去った方向を振り返った。もう姿は見えない。でも、確かにここにいた。俺に「君を見つけられて幸せだ」といった人が。 家に帰る道すがら、俺は考え続けていた。 今日という日は、何か特別だったのかもしれない。離婚してから初めて、誰かと心が通じ合うような会話をした気がする。 蓮が本当に三年前から俺を探していたのだとしたら、それはとても奇跡的なことだ。でも、なぜそこまでしてくれるのだろう。たった一度見かけただけの人を、三年も探し続けるなんて。
川沿いの公園のベンチに座って、俺は空を見上げていた。 十一月の空は重く灰色で、吐く息が白い。まるで俺の心の色と同じようだった。 平日の午後三時。普通なら会社にいる時間だが、今日は有給を取った。 理由なんてない。ただ、会社の机に向かっていると息が詰まりそうになる。同僚たちの何気ない会話や、「奥さんは元気?」という気遣いの言葉。どれも胸に刺さる。 離婚届を出してから二週間。左手薬指の日焼け跡だけが、三年間の結婚生活の名残を物語っている。まだ誰にも報告していない。言葉にした瞬間、すべてが現実になってしまう気がした。報告しなければならないことは分かっているが、どう切り出せばいいのか分からずにいる。「藤崎さんは真面目だから、きっと良いお父さんになりますよ」 昨日、後輩がそんなことをいった。彼に悪気はない。それが余計に辛かった。良いお父さんになれるのなら、まず良い夫になれていたはずだ。 ベンチの背もたれに頭を預ける。公園は静かで、時折犬の散歩をする人が通り過ぎるくらいだ。川のせせらぎが耳に心地よく響く。 こんな風に一人でいると、なぜか心が落ち着く。誰にも気を遣わなくていいし、無理に笑顔を作る必要もない。ただ、ここにいるだけでいい。「もう恋愛なんてしなくていい」 声に出して呟いてみる。そう思えば楽になるはずなのに、胸の奥に残る空虚感は消えない。 美奈との結婚生活を思い返す。最初の頃は確かに愛し合っていた。でも、いつからだろう。会話が減り、笑顔も義務のようになり、触れ合うことさえ機械的になっていった。「おかえりなさい」「お疲れさま」 交わす言葉も決まりきっていて、心がこもっていなかった。俺たちは、ただ夫婦という形を演じていただけだった。 結局、愛って何だったんだろう。 そんなことを考えながら川面を眺めていると、足音が近づいてくるのが聞こえた。この時間にここを通る人は珍しい。 顔を上げると、こちらに向かって歩いてくる男性の姿が目に入った。背が高くて、黒いコートを着ている。年齢は俺より少し若く見えた。 最初は通り過ぎるものだと思っていた。でも、その人は俺の目の前で立ち止まった。「あの……」 低くて落ち着いた声だった。俺は首を上げて、その人の顔を見る。整った顔立ちで、目元がどこか涼しげだった。でも、その表情にはどこか真剣さが感じられた。「はい
「もう二度と、誰かを愛することはない」 俺-藤崎悠真-は離婚届に最後の印を押しながら、心の奥底でそう誓った。三十二年間で初めて、本気で思った。 市役所の蛍光灯が妙に白々しく感じられる。窓口の職員が機械的な笑顔を浮かべて書類を受け取ったその瞬間、三年間の結婚生活が音もなく終わった。 「お疲れさまでした」 お疲れさま、か。確かに疲れた。心の底から、骨の髄まで疲れ切っている。 外に出ると、十一月の風が容赦なく頬を刺した。空は鉛色に沈み、今にも泣き出しそうに見える。まるで俺の心を映しているようだった。 電車の中で、ふと薬指を見下ろす。結婚指輪があった場所には、白い痕だけが残っている。三年間そこにあったものが消えると、こんなにも指が軽く感じるものなのか。 ——美奈との最後の会話が、耳の奥で反響する。 「悠真さんって、いつも笑ってるけど、本当は何を考えてるのか分からない」 間違ってなんかいなかった。俺は確かに笑っていた。でも、心から笑えていたのは一体いつが最後だっただろう。 自宅マンションの玄関を開けると、靴箱には俺の革靴だけがぽつんと並んでいる。美奈のピンクのパンプスは、もうない。 「ただいま」 誰もいない部屋に向かって呟いた声が、虚しく響いて消えた。 リビングに足を向けると、ダイニングテーブルの上には、朝のコーヒーカップが置きっぱなしになっている。中に半分残った茶色い液体は、もうとっくに冷め切っていた。 シンクに流すと、陶器の音だけが妙に大きく響く。 2LDKのこの部屋は、二人で暮らすにはちょうど良い広さだった。しかし今では、広すぎて、静かすぎて、寂しさだけが際立つ。 ソファに身を沈めた瞬間、堰を切ったように疲労が押し寄せてきた。 美奈は悪い女じゃなかった。俺だって、彼女を傷つけるつもりはなかった。ただ——心が通い合わなかった。それだけだ。 形だけの夫婦を演じることに、二人とも疲れてしまった。「もう一度やり直さないか」 最後に、俺はそう言った。しかし美奈は静かに首を横に振った。「悠真さん、あなたは優しすぎる。でも、優しさだけじゃ結婚生活は続けられない」 その通りだった。俺たちには情熱も、愛もなかった。あったのは、お互いを思いやる優しさと、世間体を気にする弱さだけだった。 結婚する前は、それ